【慶讃法要】4月27日お説教②愛知 櫻誓願寺 近藤玄隆師

【今日のお説教ダイジェスト】
4月27日(土)午後

愛知 櫻誓願寺 近藤玄隆師

 

讃題「称名念仏はこれ彼の仏の本願の行なり。故にこれを修するものは、彼の仏の願に乗じて必ず往生することを得るなり。」

 

 南無阿弥陀仏はどこの国の言葉ですか?「阿弥陀(アミタ)」は、サンスクリット語で外国語。アミターユス(無量寿)であり、慈悲のはたらきを表わします。寿命は阿弥陀様の一切功徳の根元であり、未来永劫にわたって念佛往生の心を発こしめすもの。アミターバ(無量光/智慧)であり、智慧のはたらきを表わします。私たちは両親(他者)から名前をいただきますが、仏様は自ら願いを発されて、それを達成するために修行をされ、その果報として名前を得られるのです。

 

 阿弥陀様が法蔵菩薩と名乗られていた修行時代のこと、法蔵菩薩は、貪りと怒りと愚かな行いばかりをしてしまう煩悩まみれのわれわれ凡夫を、誰一人漏らすことなく、救い取りたいと考えて考え抜いて、48通りの方法(四十八願)を打ち立てました。さらにその願いを成就するために長い間修行に打ち込まれ、法蔵菩薩はついに阿弥陀如来になられたという顛末が説かれています。

 

 その18番目に「私の名を称えるものを、残らず、心安らかに過ごせる極楽浄土に迎え取ろう。その願いがかなわぬのなら私は仏にはなりません。」と誓い願われたのです。

 

 上人は、この「阿弥陀」というお名前の中に、私たちが仏となるために、必死になってしなければならない修行を全て肩代わりして下さった功徳が込められている。その本願に全分に乗りかかって往かなければ、迷い多き私たちが救われる術はないのですと仰っています。

 

 それでは、どのような心持ちで「南無阿弥陀仏」を称えればよいのでしょうか?。上人は「聖意はかり難し」と仰います。阿弥陀様、お経を説かれたお釈迦様のお考えはとても尊く深いもので、私ごときでは分かりませんということです。では、分からないままに、ただ闇雲に「南無阿弥陀仏」と称えればよいのかというと、そうではありません。上人の仰る「分からない」は、「人の計らいが及ばない」という意味、「人の側で勝手に分かったように受け取ってはならない」という戒めの言葉でもあるのです。

 

 「聖意はかり難し」と受け取り称えた「南無阿弥陀仏」のお念仏が、今日まで受け継がれてきたのは、迷い多き至らぬ「凡夫」と呼ばれる人々が一心に称えてきたからにほかなりません。この上人がお念仏を称える姿を最もお近くで、最も長い間見てこられた浄土宗西山派派祖・西山証空上人は、「南無阿弥陀 仏の御名と思いしに 称うる人の姿なりけり」と歌を遺されています。