三昧・・・?

悲しいかな我々現代人には、誘惑が多すぎて一つのことを「黙々とする」時間になかなか耐えられません。皆「ながら」の達人です。イヤホンで音楽を聴きながら、テレビとスマホの画面を交互に見つめながら、食べ物を口に運ぶなんてのはお手のものです。

 

1月25日は法然上人のご命日です。我が派では法然上人を追慕すべく、例年前日の24日に、京都の太秦から長岡京まで約15kmの道のりを、念仏を称えながら歩く念仏行脚(ねんぶつあんぎゃ)という行があります。また2月15日のお釈迦様のご命日には、阿弥陀堂の堂内をやはり念仏を称えながら歩き、礼拝する念仏行道会(ねんぶつぎょうどうえ)という行があります。どちらも、ひたすら歩き、ひたすら南無阿弥陀仏を称えます。難しいことではありません。ただ、永遠とも思える時間が目の前に広がっています。ポイントは「他のことは考えない、ただそのことだけに集中する」です。このような状態を意味する言葉に、三昧(さんまい)という言葉があります。今では釣り三昧、贅沢三昧など遊びや趣味方面で気軽に使われますが、もともとは仏教語だったのですね。上記はまさに念仏三昧です。

 

これは他の仏教の行にも通じます。ながらの達人はあれもこれもと欲が出てしまいますが、テレビを見ながら写経はしないのです。お経文を書く手だけを動かす。それだけ。妄想にふけりながら座禅はしないのです。ただ座る。それだけ。修行の間は、食事中は喋るどころか箸や食器で余計な音をたてることも憚られました。それこそ今、流行りの黙食です。仏教はずっと前から黙活しているのです。

 

余念なく、ただ目の前のものに向き合う。

 

ちなみに法然上人は毎日六万遍のお念仏を称えていたとのこと・・・