【慶讃法要】4月21日お説教②兵庫 清慶寺 下村孝明師

【今日のお説教ダイジェスト】
4月21日(日)午後
兵庫 清慶寺 下村孝明師

 

讃題「智者のふるまいをせずして ただ一向に念仏すべし」

 

この御法語は「自分をよく見せようとするのではなく、無知である自分を受け入れる。自分は煩悩具足の凡夫であると、煩悩から離れられない弱い人間であると認めることです。こんな自分でも、こんな弱い自分だからこそ阿弥陀様は救って下さる。その事に気づけば自然と感謝のお念仏がでてくる。その心で一心に南無阿弥陀のお念仏をお称えしなさい」という意味です。

 

若い頃、よく師僧に言われました。「法事に行ったら、目上の人が頭を下げてくれる、座る席は一番上座や。それで勘違いしたらあかん。皆が頭を下げてくれるのはアンタにやないで。アンタのつけている衣や袈裟、そして称えるお経さんや阿弥陀仏さんにさげてくれているんや。けっして勘違いしたらあかん」と。私とここにお座りの皆様と、仏教やらお経さんの知識の違いなんて微々たるもんです。「お前は智慧第一と言われた法然上人さまの様に膨大なお経を読んだか、理解したか」と問われると、とてもそんなことはありません。「いいか、奢るなよ、弱い心しかない、何も知らない分からない、こんな私をどうぞお助けくださいという素直な心で、ただ南無阿弥陀仏とお称えしなさい」と言われているようで背筋が伸びます。

 

法然上人は「生まれながらにある目や鼻は取ろうと思って取れるものではない。煩悩もまた同じで取り払うことはできないのですよ」とおっしゃっています。でもその「煩悩」の自覚こそ極楽の入り口なのです。この自覚なしでは「善人」になろうとして自分に色をつけてしまいます。善人になろうとするのではなく、嫌な所も持ち合わせた弱い人間なんだと受け入れると、素直に「あぁ、ありがとうございます」と感謝のお念仏が出てくるのです。