【慶讃法要】4月25日お説教①京都 長福寺 岡本光正師

【今日のお説教ダイジェスト】
4月25日(木)午前
京都 長福寺 岡本光正師

 

 

讃題「上よりこのかた、定散両門の益を説くといえども、佛の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもっぱら弥陀佛のみ名を称せしむるにあり。」

 

 さて、「立教」、何の教えが立てられたのかと言いますと、その日の暮らしがやっとで、修行をすることも寄進をすることもできない人だって、南無阿弥陀仏と称えさえすれば良い。すでに阿弥陀様の方から救って下さっているのだ、という教えです。全ての人々が救われる道として、法然上人が選ばれたのは「南無阿弥陀仏」と称える専修念仏の道だったのです。

 

 私が少年の頃、先代住職である祖父の後ろでよくお経の練習をさせて頂いておりました。ただ、「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と称えても、何かの呪文のようで意味が分からない。ただ「仏さまの前で称えるんだよ」って経本を渡されて、一緒に称えておりました。正直な話、その頃は何の意味があるのかって思っておりました。けれどもね、20年経った今になったら思うのですよ。私が称えていたと思っていたお経は、実は先代が称えていたお経が私の中に備わって、私の口から出ていたのですね。

 

 思い返してみると、私の話している一つ一つの言葉は、みんな誰かから頂いたもの。先代住職もそうですが、父や母や、親戚や友人、先生や様々な先人の方々の影響が私に備わって、私の口から紡がれている。そのように考えてみると、命は全部つながっていて、連続していて、今の私は多くの命によって作られたものなのだと思いますね。

 

 皆様もぜひご自身のことを振り返って見て下さいませ。人に優しい言葉をかけたとき、その言葉は誰からゆずりうけたものですか?人に手を差し伸べたとき、その行いは、誰かから学んだことではないですか?誰かに深く共感したとき、それは自分を認めて下さった誰かのお陰ではないですか?「ナムアミダブツ」と称えますでしょ。私が称えていると思っているこの佛のみ名ですが、法然上人をはじめ、たくさんの方々の思いをのせて、今日まで紡がれている。もっと遡れば、仏さまが私の口を使って称えて下さっていることになるのです。阿弥陀仏の救いを信じて、「ナムアミダブツ」と称えながら日々を生きていけたら、どんなに素晴らしいことでしょう。