【慶讃法要】4月25日お説教②北海道 善光寺 大久保瑞昭師

【今日のお説教ダイジェスト】
4月25日(木)午後
北海道 善光寺 大久保瑞昭師

 

讃題「かみよりこのかた、定散両門の益を説くと雖も、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向に専ら阿弥陀仏の名を称せしむるにあり」

 

 拝読いたしましたご讃題は、中国の善導大師様の著されたお言葉で、法然上人が、浄土の教えを確立されたとされるものです。「たくさんのお経や修行を、阿弥陀仏の願いをもとに考えると、それは、ただただ、私たちに、阿弥陀仏のみ名、南無阿弥陀仏を称えさせるためにはたらきかけてらっしゃるのだ」ということです。

 

 先日、私より少し年上の、50代後半の方のご葬儀をいたしました。それから数か月が経ちますが、ご両親、妹さんは、まだ何がなんだか分からない、という状況なのです。しかし、そういう辛い中にあって、こちらのご家族は、毎月の月参りもお願いされ、その時には、皆さん、経本を見て一緒に読経して下さっています。お子さんを亡くされたという、悲しい出来事の中、懸命に、手を合わせ、お念仏を称えてらっしゃるのですね。

 

 もちろん、自分より若い人が亡くなるというのは、悲しいことです。できれば、避けて通りたいことです。しかしながら、この娑婆においては、自分より年下の人が亡くなるというのは、そんなに多くはないけれども、絶対に起こり得ることなのです。この、大切な人と死に別れることは、自分の力ではどうすることもできない。それを仏教では「苦」と言います。

 

 その娑婆の苦にあっても、何とか、私たちに手を合わさせている、お念仏を称えさせている大きな力があります。この苦しみに遭遇しても、私たちを仏さまに向かわせる大いなる力がはたらいています。阿弥陀様、ご先祖様が、わたしの手を合わさせて下さる、お念仏を称えさせて下さる。浄土を願わせ、お念仏を称えさせようとする阿弥陀仏の願いが、今、私たちのもとに届いて、口から「南無阿弥陀仏」と出てらっしゃるのです。それは阿弥陀仏の願いが、私たちに届いて、一つになった姿です。さまざまなお経や修行法は、ことごとく、阿弥陀様のみ名「南無阿弥陀仏」を称えさせるために、はたらいて下さっているのです。