【慶讃法要】4月23日お説教②兵庫 西光寺 大塚靈閑師

【今日のお説教ダイジェスト】

4月23日(火)午後

兵庫 西光寺 大塚靈閑師

 

讃題 上より来(このかた)、定散両門の益を説くといへども、佛の本願に望むれば、意(こころ)、衆生をして一向に専ら弥陀仏の、み名を称せしむるにあり

 

ある日、あなたの大切な方との残された時間=「いっしょの時間」を計算してみましょうというメールマガジンが届きました。大切な人を10歳になる子供に設定し、いくつかの質問に答えて、計算するというボタンをクリックしてみました。すると残り280日15時間と出ました。残された時間がこんなにも短いのです…

 

私の寺の近くに住むMさんは、80歳を越えても元気溌溂で、毎日朝夕のウォーキングを欠かしません。ある時、「毎日精が出ますね」と申しますと、Mさんは「長生きしてあいつにお経をあげたらなあかんでな」とぼそっとおっしゃいました。Mさんは30年ほど前に奥様を亡くされているのです。お仏壇やお墓へのお参りも毎日欠かさないMさんには奥様との死別後も確かに「いっしょの時間」がありました。それが救いにつながっているのです。法然上人が追い求め続けたものは、すべての人にこの救いがあらねばならないということでした。

 

法然上人以前の教えというのは、階段の上にいる仏さまを目指して、修行をし、戒律を守り、寄進をするなどして自分の力で登っていくしかありませんでした。お念仏も階段を登るための一つの手段でした。しかし自力で階段を登っていくのは、皆が出来るわけではありません。法然上人は、先ほどの讃題の言葉で得心されました。いや、仏さまの方が階段から下りてきて、階段を登れない私たちのために、手を差し伸べてくださるのだと。欲や怒りといった煩悩にまみれ、階段を登ることができない私たちのことを阿弥陀仏はどうにも放っておけないのです。この思いに対して、私たちは南無阿弥陀仏のお念仏で応えるのです。私たちに南無阿弥陀仏と称えさせることが、お釈迦様の意図するところなのです。

 

今、永観堂の総門の掲示板には「幸せだから感謝するのではない。感謝できることが幸せである」と書かれてあります。Mさんの姿が重なります。

 

どうぞ南無阿弥陀仏のお念仏のある生活をお送りください。

 

※写真は当日のものではございません。