ちょっと、疲れた人へ

人生、予想もしないことが襲ってきます。「えっ、こんなはずではなかったのに」と後悔したり、辛いことが続いて、疲れちゃったり。

私だけが、こんな辛くて重い気分なのだろうか、いや、目の前の笑顔の人も、ひょっとしたら、私と同じ思いかもしれない。辛くても、笑顔を見せているんだ。頑張っているんだ。すごいね。私も、がんばってみようかな。

でも、苦しくて辛いままに、笑顔になるなんて、私には、ナカナカできないけど、そんな私を見ていてくださる仏さまが、ちゃんといます。他の人に、とても言えないことも、ちゃんと見ていてくださる仏さま。

ほら、南無阿弥陀仏。そのままでも、いいのよ。そのまんま。
よかったね。その教えが説かれて、もう850年になります。

法然房(ほうねんぼう)源空(げんくう)上人が、およそ今から八五〇年前に、新しいお念仏の教え「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」にたどり着かれました。

 

●法然上人が専修念仏の教えを開く前の仏教は、その厳しい修行を行うことが正しい道であると考えられていました。

●でも、真面目に生きようとしても、欲を出したり怒ったり、愚かなことをついついしでかしてしまうのが私。わかっていても、怠惰な日常になるのが私。そんな私が修行で悟りを開くことができるのだろうか。多くの人々は、迷いながら生きていました。
そういう人々が、往生できる教えはないのだろうかと、法然房源空上人は、全ての経典を何度も探されました。

●法然上人は43歳の時、中国の善導大師が書かれた『観経疏』の一節をご覧になり、「ああこれだ!」と感激されます。それは、阿弥陀仏は、ちゃんと私のことを見ていてくださる、阿弥陀様の本願にたよれば、いいのだと気づきます。
私たちの修行や功徳は不要という専修念仏は革新的な教えであり、それまでの仏教をくつがえすので、「立教開宗」として位置づけています。

 

もうじき、立教開宗は八五〇年を迎えます。