去る5月30日、東大寺にて西山浄土宗澤田猊下厳修の下、西山門葉二百人の僧侶が集いお待ち受けの法要が営まれました。
東大寺は治承四年(1180)、平重衡の南都焼き討ちの際、炎上しました。その復興の勧進職に法然上人が推されますが、上人は辞退され、代わりに醍醐寺の俊乗房重源上人を推挙されました。重源上人は自らを「南無阿弥陀仏」と称するほど浄土信仰に篤く、大原問答にも列席しています。
法然上人は、文治六年(1190)に、重源上人の招きにより復興なかばの東大寺で、『浄土三部経』を講説されました。その内容は、「三論法相の深義を滞りなくのべ、凡夫出離の法、口称念佛にしくはなし」と説かれたものです。
東大寺を焼討ちした平重衡もまた、法然上人に帰依しておりました。『平家物語』巻十の「戒文」には、一の谷の合戦にて囚われの身となった平重衡が、鎌倉へ護送される途中、法然上人より戒を授かったとあります。
重衡は涙ながらに語ります。「世が乱れてからずっと戦いの毎日の中で、他人を滅ぼし我が身ばかりが助かろうという悪い心ばかりでした。その中で命じられたこととはいえ、南都を炎上させ、思わぬ事といいながら東大寺を焼失させてしまいましたが、その責は大将軍であった我が身が負わなければなりません。このような悪人が助かる方法をお示し下さい」と。
法然上人は「この末法の世に生きる私たちには、阿弥陀様の名を称えることしかできません。念仏することは自身の罪を懺悔することでもあります。一声でも称えれば罪は必ず除かれます。そして必ずお浄土に生まれることができるのです」と、涙にむせびながら戒を授けます。
重衡は感謝し、父清盛が愛用していた「松陰」という硯を形見として託しました。時代の渦に呑まれ苦しむ人びとにとって、法然上人の説かれたお念仏の教えがどれほど救いであったのかを物語るものでしょう。