法然上人立教開宗850年記念大会ポスター「そのとき『門』は開かれた」を描いた、日本画家・中田文花さん「お寺に憧れ、仏縁に導かれて描いてきた」
諸宗派の人形も作っています
法然上人立教開宗850年記念事業にお力添えいただいた、さまざまなクリエイターのみなさんを紹介するインタビューシリーズ。第一回は、記念大会ポスターの原画を担当した日本画家の中田文花さんです。
立教開宗を決意した瞬間の法然上人のイメージを、新緑の朝にお堂の扉を開けて一歩を踏み出す清々しく晴れやかなお姿で表現してくださいました。
インタビューでは、中田さんが画家になられるまでのこと、奈良のお寺とのご縁により華厳宗の僧侶となり、法然上人のご縁に導かれて歩んだ道についてお話を伺いました。
<プロフィール>
中田文花(なかた・もんか)
日本画家。造形作家。学生時代は国文学を専攻し、万葉集に親しむ。古典文学、古典芸能、寺社の行事など、日本の伝統文化にこだわった作品を描く。制作の素養として、舞楽、龍笛、短歌、茶道を学んでいる。薬師寺、知恩院、四天王寺の機関誌の挿絵連載をはじめ、寺社の出版物の挿絵を多数描いている。2011年東大寺にて得度。院展、全関西美術展、万葉日本画大賞展など入選多数。著書に『知恩院祈りの美』(創教出版)がある。
東大寺と薬師寺で過ごした学生時代
――子どもの頃からお寺がお好きだったと伺いました。
中田氏:お寺にお参りするのが好きな子どもでした。小学生のときに、遠足で行った東大寺に感動しましてね。「いつかこのお寺と関わってみたい」と憧れたんです。また、高校生のときに父の書斎で見つけた、故・高田好胤師(元薬師寺管主)の著書を読んで感動して、勝手にマンガに描いてました。それでご法話を聞きに伺ったんです。境内をうろうろしていたら、お坊さんが「あんた、お寺好きか?お寺好きやったら薬師寺に手伝いに来ないか?」と声をかけてくださって。なんと、薬師寺最大の法要である修二会「花会式」にお手伝いに行けることになったんです。観光客ではない立場で伝統を支える喜びを知りました。
――絵はいつから描いておられたのですか?
中田氏:大学では国文学を専攻し、万葉集を題材にした絵を描きはじめました。ちょうどその頃、あるカルチャーセンターで、後に師僧となる東大寺の狭川普文師(第222、223世東大寺別当。現・東大寺長老)による「仏法を描く」という講座が開催されたんです。普文師に絵を教わるだけでなく、いろんなお寺や芸術家のアトリエに連れて行っていただくという、贅沢な学生時代を過ごしました。そして、普文師にも「お寺好きやったら、東大寺を手伝いにおいで」と言ってもらいました。なので、学生時代は休みになったら東大寺と薬師寺、どちらかにお手伝いに行ってました。
私が絵を描いていることは、みなさん知ってくださっていて。あるとき、薬師寺さんで「そんなにお寺の絵を描くのが好きやったら、うちの機関紙で挿絵を描かへんか」と言ってもらえたのです。
舞楽を題材に中田さんがつくられた帯留めや小物。非常に細密に着色されている。
四天王寺の法要「聖霊会」の曼珠沙華、舞楽の人形も!
お寺に認められる画家になりたい
――画家としての初仕事は薬師寺さんだったのですか?
中田氏:はい。まだ学生時代のことでした。あるとき、台所で洗い物をしていたときに、大谷徹奘さん(現・薬師寺執事長)が「俺は蒲鉾を切るのがうまいんだぜ」とおっしゃったので、「板についてますね!」と返したら、「お前は面白いから四コマ漫画を描け!」と言われまして。挿絵と漫画のお仕事をさせていただくようになりました。
――お寺と絵という、ふたつの「好き」が一緒に叶う道が見えてきたんですね。
中田氏:大学卒業後もお寺さんで絵の仕事をしたいけれど、私は芸術系大学を出たわけでもありません。画家としての社会的信用が必要だと思い、有名な公募展や格式のある院展に出品をはじめました。いろんな公募展に入選もさせていただきましたが、今はその考え方は間違っていたと思います。お寺に愛情をもって通い、顔を覚えてもらってはじめて声をかけていただけるんです。
――東大寺で得度を受けて、華厳宗の僧侶にもなられています。
中田氏:結婚し、子育てが一段落したとき、東大寺では一般の人も得度できると小耳にはさみ、即刻、普文師にお電話しました。家族に反対されたら困るので「二泊三日でお勉強してきます」とだけ伝えて、内緒で得度を受けました。すると、絵描きが尼僧になったのが面白いと朝日新聞に取材され、その記事を見た関西テレビから『となりの人間国宝さん』の取材がきました。たくさんの反響をいただきました。奈良が大好きで人生を過ごしてきましたので、この南都袈裟をかけることはとても誇らしいです。
雅楽をきっかけに知恩院へ
――今回のポスター画の依頼は、2018年春に知恩院・和順会館で開催された「知恩院祈りの美 中田文花 原画展」を見た、当宗派の中川龍学さんからお声がけしたと伺っています。知恩院とのご縁はどのようにはじまったのですか。
中田氏:仏さまが奏でる音楽・雅楽の龍笛を習いたくて先生を探していましたら、当時知恩院にお勤めされており、知恩院雅楽会にも参加されていた福原徹心さんが教えてくださることになったのです。お稽古は、閉門後の知恩院です。夕闇せまる境内にいると、勤行の声があちこちから聞こえてくるすばらしい環境でした。
――南都仏教の東大寺や薬師寺を見てきた中田さんの目に、知恩院はどんなふうに映ったのでしょう。
中田氏:南都の法要は声明も力強くリズミカルですし、お水取りの五体投地では身を打ち付けるなどダイナミックでかっこいい。ところが、知恩院の法要は声明もお坊さんたちの所作も大変優雅です。こんな典雅な法要もあるのかと驚きました。また、南都のお袈裟は麻でつくられたおおらかで素朴なものですが、浄土宗は京都の職人のセンスや技術に磨かれてきた美しい絹の文化です。たとえば、伴僧の肩五条袈裟姿は赤と黒のコントラストが美しいのですが、御忌のときだけ葵の御紋が金刺繍になります。顔周りが華やかで「こんな素敵なお袈裟は見たことがない」と衝撃さえ受けました。
実は、私の実家は浄土宗の檀信徒で、菩提寺のご住職には月参りに来ていただいていたんです。
申し訳ないことに、南都仏教にはまっていた私は浄土宗には全く興味がありませんでした。「なんでご住職は本山の法要がこんなにも素晴らしいと教えてくれなかったのか」とうらんだほどです。しかし、私の体にお念仏をしみこませてくださったのもそのご住職だったと気がついたとき、感謝に変わりました。
――法要やお袈裟に感動される中田さんに、お坊さんの方が驚かれたかもしれませんね。
中田氏:南都と違うお袈裟や作法に興味津々で質問攻めにしてしまいました(笑)。法要の美しさに「お浄土みたいやー!」と感動しておりましたら、「そんなに感動してくれるなら、知恩院の絵を描かないか」と言っていただきまして。こうして、月刊紙『知恩』(知恩院発行)の表紙連載がはじまり、浄土宗関連の挿絵やポスターも描かせていただくようになりました。
「そのとき『門』は開かれた」にこめた思い
「そのとき『門』は開かれた」の原画
――立教開宗850年記念事業のポスターは、「法然上人が長い模索ののちに、経蔵のなかで「念仏の一行でよい」と確信を得られた翌朝、まさに一歩を踏み出すお姿を描いてほしい」と依頼されたと伺っています。
中田氏:実は、「開く」は私自身の画題のひとつなんです。開くことによって、一日がはじまったり、新しいものを取り入れたり、あるいは旅立ちなどがイメージできます。今回は「そのとき『門』は開かれた」というタイトルを聞いてすぐに「扉を開いて新しい一歩を踏み出す」というイメージはできていました。
ご依頼いただいたときは、コロナ禍の真っ最中で取材がままならず、自宅から徒歩で行けるご遺跡・四天王寺さんでこの絵にふさわしい扉を探して参考にしました。お堂や「後ろから阿弥陀さまが見守ってくださる」というイメージも架空のものです。むしろ、架空であったからこそ自由に描けたのかもしれません。
仕事部屋の絵具棚にも小さなお水取り練行衆の人形が!中田さんの奈良愛の深さを感じる
中田さんの仕事机。次はどんな作品が生まれてくるのだろう
――中田さんは衣やお袈裟を正確に描くことを大切にされています。今回、特にこだわって描かれたポイントは?
中田氏:参考資料として、当時の衣が描かれている絵巻を見せていただいたのですが、黒衣の裾の部分が現代の浄土宗の形とは違っていてくしゃくしゃとして裾が広がっています。絵のうえでの表現なのか、本当にそういう形だったのかがわからずいろいろ調べました。最終的に、ポスターで描いたのは東大寺や薬師寺の衣の裾です。長い裾を縦横に複雑に折り上げ糸で留めた、絵巻そのもののスタイルが残っていたのです。
おそらく現代で、この裾の部分にこだわって法然上人のお姿を描く人はほとんどないでしょう。お寺の世界には、膨大な決まり事があります。何一つとして勝手に描くことはできないと肝に命じて描いています。
――法然上人の表情も晴れ晴れと瑞々しいです。お顔のイメージはどのように捉えられたのですか。
中田氏:法然上人の包み込むようなやさしさ、みなさんに「ともにお念仏しよう」と微笑みかけるようなお顔にしたいと思いました。ただ、みなさんそれぞれの法然上人のイメージがありますから、あまりリアルには描きすぎず柔らかい表情を心がけました。
夢をかなえてくれた「法然上人のご縁」
念仏行脚人形
――絵を通して、浄土宗と法然上人に出会い直されたのかなと思います。そのご縁をどんなふうに受け止めておられますか。
中田氏:浄土宗の檀信徒の家にうまれて、導かれるように知恩院さんのお仕事をさせていただき、また浄土宗西山禅林寺派のお仕事もさせていただきました。南都仏教での経験を経て、ふたたび浄土宗に出会い直せたことに感謝しています。
実は、東大寺と法然上人、浄土宗のご縁の深さにびっくりしたことがありました。東大寺は、鎌倉時代に平重衡の南都焼き討ちで伽藍を焼失しました。その復興の勧進職に法然上人が推挙したのが俊乗房重源上人。法然上人は復興半ばの東大寺で『浄土三部経』を講説されたそうです。
江戸時代初期、三度目となる大仏殿の復興がはじまったとき、計画図面を展示するために「指図堂」というお堂が建てられました。江戸時代の台風で指図堂が倒壊したときには、浄土宗徒の喜捨で再建されました。昨年、老朽化に伴う修理が行われたのですが、今年5月の改修落慶法要に際して、東大寺さんは浄土宗の仕事をしてきた私に、散華の絵をご依頼くださいました。
初めての東大寺さんからのご依頼に、電話を持つ手が震えていました。「いつか東大寺さんにご依頼をいただく画家になれたら」と淡い希望を抱いてきた私に、法然上人、浄土宗さんがそのご縁をくださったのです。
東大寺指図堂修理落慶法要の散華。
――大きな夢がかなった今、これから目指しておられることはありますか?
中田氏:この後の人生では、東大寺のお水取りと薬師寺の花会式、ふたつのお寺の修二会について、それぞれ図解する本を書こうと思っています。30年以上取材してきましたので、そろそろ取りかかりたいですね。
ことにお水取りは、お坊さんが着けていらっしゃる衣や持ち物を見ただけで、何月何日の何時だとわかる、そのくらい事細かに決まりごとがある世界です。だからこそ、間違いなく描かなければいけません。美しくすばらしい法要を、絵で伝えることが、画家であり僧侶である私の布教活動だと思っています。
――ありがとうございました。中田さんによるお水取り、花会式の本を楽しみにしています!
(取材・文・撮影、杉本恭子)