浄土という素晴らしい世界に生まれるためには、なにか特別なことをしなくてはならないのでしょうか。
「四十八願(しじゅうはちがん)」にはどのような条件も、資格も述べられておりません。法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は「四十八願」の一々に、「わたしの浄土に生まれたいと願う者すべてを生まれさすことが出来なければ、私は決して仏にはならない」と誓われました。これを集約したのが第十八番の「わたしの名を呼ぶ者は必ず生まれさせる」という願いです。
「阿弥陀(あみだ)」という名前
最初の一人が浄土に生まれた時、四十八願はかなえられたことになります。誓願が果たされて、法蔵菩薩が仏様となった名前を「阿弥陀」といいます。
私たちが生まれることができないのなら、「四十八願」も、「阿弥陀」という仏様も、「浄土」もただの絵空事にしか過ぎません。最初の一人が浄土に生まれてから、今もずっと、阿弥陀仏は誓願を果たそうと、生まれさせ続けておられます。私たちの方から見れば、私たちは今もずっと阿弥陀仏に願われ続けているのということになります。願われているという証しが、私たちの口から「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という声となって出てきます。これを念仏と言います。
「この私がどのように生きていくか」、その答えが阿弥陀仏の願いの中に生きるという念仏の生き方です。
私たちのご先祖や、今は亡き友人も、きっと浄土に生まれて、阿弥陀仏と一緒に私たちを見守ってくださっています。私の命は無量の命から願われ、生かされているのです。
お念仏の生活
「南無阿弥陀仏」と口に出すことは簡単です。でも称えたからといって何か生き方が変わるでしょうか。称えることが目的なら、これ以上することはありません。自分から称えたつもりでも、「南無阿弥陀仏」と声が出たということは、もうすでに阿弥陀仏の願いの中にあるということです。そのことがわかると、衣・食・住の生活のすべてが阿弥陀仏の願いの中におさまっていきます。
今の自分の「苦」に目をそらさず、「苦」から救ってくださる「阿弥陀仏」と一緒に生きていくのです。